宮良クリニック 乳がん検診・乳腺外来・甲状腺外来

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
闘病記 一瞬「死」が頭に浮かぶ 早期に気付いた検査技師へ感謝

超音波検査技師の浅黄早弓さん。彼女は私の命の恩人である。二度目の手術のための術前検査を受けに行ったとき、検査室で声をかけられた。

「あれ、与儀さんどうしたの?」「この前の検査の結果、実はがんで、また手術なんです」「そうだったんだ。今回、半年前の検査で見たときと比べて乳腺の 形が少し違っていたから気になって、一応、宮良球一郎先生にコメントを書いたのよ」と話してくれた。彼女の積み重ねた経験と勘が乳がんのサインを見逃さな かった。

主治医はよく言っている。医師だけでは正しい診断ができないことがある。レントゲン技師、超音波検査技師、看護師、皆が一丸となってチームワークを発揮 し患者を診ていくのだと。浅黄さんのコメントをみて、主治医は自らエコーでそれを確認し、細胞診検査をした。結果は「良性と思われる」。

しかし主治医はその結果に不満のようで「思われるではなく、百パーセント良性であるって出ないとね」と、さらに組織検査を追加した。結果、悪性であるこ とが分かったのだ。私が使った抗がん剤は一番強いもので、しかもよく効いていたはずだ。それなのに、新たに見つかったがんは、その抗がん剤が効かないほど 強いがんなのか…。一瞬「死」が頭に浮かび、かき消した。

私が再び手術を受けることを知った周りの人たちの反応はさまざまだった。泣き出す人、安静にしてないで無理をしたのだろうとしかる人。でも、皆、私のこ とを親身になって心配してくれてのことだった。ただ「ピーチパイ」や、同じ乳がんを患った人たちには、できれば、知られたくなかった。中には私の抗がん剤 がとてもよく効いたということを励みに、同じ抗がん剤の治療に頑張っている人もいた。皆にどれほど不安を与えるだろうか。でも、隠し通せるものではない。 どう対応していいか分からなかったが、とりあえず、今は自覚症状がないしそんなに心配しないでください、という気持ちを伝えるしかなかった。

乳がんは早期に発見し、正しい治療を受ければ決して怖い病気ではない。怖いことは、乳がんを見つけられることではなく、乳がんを見落とされることだ。今 回、浅黄さんの判断と宮良先生の念入りな検査で、私は重箱の隅をつつくようにして小さな悪性のがんを見つけてもらった。でも、もし浅黄さんが半年前との変 化に気付いてくれなかったら、潜んでいた乳がんは確実に増殖し、結局、私は数年後に、再び乳がんの告知を受けることになっただろう。

そう考えると、今回の早期に見つかったがんは、私の人生において決してマイナスではなく、むしろ人生をより長く生きるための大いなるプラスではないか。 そんな思いを、心配してくれる大勢の人たちに話していった。不思議なことに、何回も何回も同じ話をしていると、心の底から本当にそうだと思えてきた。早期 発見だ。絶対に、死ぬわけがない。

告知から激動の日々が過ぎ、駆け込むように入院して、二回目の手術の日を迎えた。ストレッチャーで手術室に向かおうとするとき「与儀さん、頑張ってね」 と、隣の病室のE子さんの声がした。優しくて、暖かく、張りつめていた肩の力がスーっと抜けた。告知を受けてから初めてホッとできて、ポロポロ涙が出た。 このときの仲間で、また新たな患者の会ができた。「Wa!の会」である。この会は、宮古島のT子さんの人柄と面倒見の良さで、病院の垣根を超えた大きな 「人の輪」に広がっている。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長




闘病記 2回目の「告知」に衝撃 自覚症状なく「信じられない」

抗がん剤治療最後の日。今日で終わりだと考えるだけで、涙が出るほどうれしかった。「つらい治療だったのに、与儀さんは本当によく頑張ったよね」と、最後の点滴の針を刺しながら看護師さんに言われて、また涙が出た。

その後、私は二度目の手術をすることになるが、いつも大勢の方に支えられた。とりわけ私の家族への励ましは、本当にありがたいと思った。病と闘う本人がつらいのはもちろんだが、そばにいる家族の心痛は計り知れないからだ。

主人がとてもお世話になっている方の奥様から頂いた手紙には、北部に単身赴任中の主人が、まめに家へ帰れるようにと高速カードが添えられていた。那覇と 名護の離れた生活を心配してくださった真心の配慮だった。主人の先輩で薬局を経営するMさんは、主人をよくお店に呼んでは、最近読んだ本にある先人の生き 方など、学生時代のような話をしながら「与儀君が元気にならないと」と励ましてくれた。

二度目の入院のとき、病室に大きな花が届けられた。家族を乳がんで失った主人のおじさんからだった。「女性ばかりが入院している病室には行きにくいから ね」と言っておられた。次々につぼみが開花していく。この花は、私だけではなく"頑張れよ"という主人へのエールだと思う。主人の弟は、看病に来ている私 の高齢の母の健康を、とても気遣ってくれた。弟の心遣いを、本当に細かなことにまでよく気付いてくれると、私の母は感心し感謝していた。

私が沖縄に嫁いで来た年と、翌々年に生まれたおい、亮太と亮二。子どものころは泊まりに来たり、休みの日には一緒に遊びに行ったりもしたが、今では亮太 はミュージシャン、亮二は測量の仕事をしている。主人と離れ、独り治療を始めた私を心配してくれた。私たち夫婦に子どもはいないが、私は二人のおいに頑 張って生きる姿を示したいと思った。私と家族を励ましてくださったまだまだ多くの方々に、感謝の思いで一杯である。

手術を終えると六カ月ごとに定期検診を受ける。乳がんは進行が遅いため術後五年以上たってから再発する場合もあり、十年が過ぎてやっと安心できる。毎回 の定期検診が異常無しであれば十年の目標に向かって一歩階段を上ることができるのだが、もし、転移していたらと思うと、とても不安で憂うつになる。乳がん が転移しやすいのは骨、肺、肝臓、リンパ節の四カ所。「骨の激痛も、息苦しさも、だるさも、何もない。だから今回はきっと異常なし」と、自分に言い聞か せ、不安を振り払うようにして毎回の検査に臨む。

「それに、私はあんなにつらい抗がん剤治療をしたのだ。薬は非常に良く効いて手術も成功した。また乳がんなんて冗談じゃない、絶対にあり得ない」と、 思っていたことが起こってしまった。二〇〇四年三月十六日、術後二年目の定期検診だった。がんの告知もショックだが、二回目の告知はもっときつい。現実を 受け入れられない。あえて一言で言えば「うそでしょう、信じられない」だった。私はどこも痛くないし自覚症状は何もない。検査の結果を主治医の宮良球一郎 先生は、とても言いにくそうだった。

「検査の結果、悪くてね…乳がんだね…」

それでも私は、宮良先生は冗談を言っているのだと思った。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長




闘病記 仲間との出会いが支えに 患者の会「ピーチパイ」誕生

手術が無事終わり、麻酔から覚めると、右の肩甲骨から腕がビリビリとものすごく痛かっ た。手術の時、わきの下のリンパ節を取り除く際、上腕肋間神経(肩、上腕の知覚を支配している神経)を切るためらしい。主治医は「それでも与儀さんは、三 本切るところ一本で済んだからラッキーだよ」と言っていた。

一本で済んでこの痛み? その上、点滴、尿管、心電図や酸素の管が体につながれていて思うように動けず、首、腰、背中まで痛い。もっとつらかったのは、 抗がん剤の副作用で薬を飲まなければ眠れなくなっていた私は、結局一睡もできないまま長い夜を、ひたすら朝が来るのを待った。十分が一時間にも感じられ、 時間がちっとも進まない。

小鳥のさえずりが聞こえてきた。やっと夜が明けそうな気配を感じたころ、ベッドを少し起こしてもらってうがいをした。一つずつ身体につながれていたものがはずされ、朝になって身体の自由がもどると、さっきまでの地獄の苦しみはうそのように消えた。

術後の治療方針は、手術によって切除した組織の病理診断等の結果をみて決定される。病巣は取り除いても、手術の時には発見できなかった小さながん(がん細胞)は血液やリンパの流れに乗って体のほかの臓器に転移する可能性がある。

そこで、その予防のために術後の補助療法として化学療法(抗がん剤による治療)、内分泌療法(抗ホルモン剤を使う治療)、放射線療法などの治療が行われ る場合がある。私のように術前にも抗がん剤を打つメリットの一つは、手術を終えた時点で使っていた抗がん剤が、私のがんに有効かどうか判断することができ ることだそうだ。私の場合、術前に打っていた抗がん剤が非常によく効いていた、ということで、術後も引き続き同じ抗がん剤による治療が開始された。

「手術で悪いところはすべて取ったんだから後は自分で頑張りなさい」と言って母は帰った。私も「手術前にやった治療を、もう一度、繰り返せばいいのだか ら頑張れる」と思った。ところが、手術で体力が消耗していた私にとって、術後の抗がん剤治療の副作用は術前とは比べものにならないほどきつかった。

同じように抗がん剤治療を経験した友人は「治療の日が近づくと"探さないでください"と手紙を置いてだれも自分を知らない所へ逃げたかった」と言ってい たのがよく分かる。私も、できるわけがないと分かっていながら、毎回「今日こそ、抗がん剤はやめたいって宮良先生にお願いする。もう限界」と言って、家を 出た。

そんな私にとって、入院中に知り合った、同じ病気と闘う仲間との出会いは、大きな心の支えと勇気になった。私たち十三人は、この患者の会を「ピーチパ イ」(病室の窓から夜になると桃のネオンが見えたことから)と命名した。術後の治療はさまざまだが、全員が抗がん剤や放射線治療を終えて元気になったら、 皆で食事会をしようと約束した。

そして、その年の暮れ、一回目の会が実現した。この日は主治医も出席してくださり、術後の不安なことを質問し、入院中のエピソードにも花が咲いた。そし て記念写真を写した。あれから三年半が過ぎた。今でも時々会う人、もう会えない人。知り合ったときはノーメイクで寝間着姿だったが、写真の中ではみんなス テキにドレスアップしてほほ笑んでいる。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長




闘病記 プラス思考で勇気奮わす 仲人の励ましが力に


乳がんの告知を受けたとき、関東の大学病院の医師である仲人の屋嘉比康治さんに電話で報 告をした。「がんにかかってしまったということは、とても大変なことだ。しかし、人生の中で抱えきれない困難に直面するときが、だれにでも遅かれ早かれ必 ず来る。そして、このことによってどんな困難にも立ち向かうことのできる大きな自分になることができるんだよ」。受話器を持つ手に力が入った。

「いい結果をイメージすることだ。不安になったら不安がなくなるまで、いい結果が確信できるまで、自分のペースで思い描いていくことだ。そして大事なこ とは、医師の力を借り、薬の力を使い、そして自分の生命力、すべての力を使って病気に立ち向かい、治すことだよ」。かんで含めるような励ましは続いた。

「いろんな人を見ているが、結局、人は自分の思ったような生き方になるような気がする。心からの願いは必ずかなうのだから」。生命の底から、がんと闘う勇気がわいてきた。

手術を一カ月後に控え、私の母が来てくれた。こんな娘の姿を見るのはつらいだろうと思い、電話では、何ともないから来なくていいと言い続けていたのだ が、妹から「お母さんは、とにかく一度はそっちに行ってお姉さんの顔を見ないと気がすまないって言ってるから。来てもらって甘えてね」と連絡があった。

その日、母の乗るはずの飛行機は強風のため羽田で足止めをくい、沖縄に着いたのは深夜になってからだった。この年になってまさかここまで親に助けてもら うとは思ってもいなかったが、家事一切をお願いした。母は私が食べられそうなものを、いつも少しずつ出してくれた。それで、体力が保てた。母はありがた い。もし、母が来てくれなかったら、無事手術はできただろうかと思う。

二〇〇二年二月八日に手術の日が決まった。八回目の抗がん剤投与を終え、主治医から最終的な手術の説明があった。三カ月間、薬の効き方をみながら、手術の方法の可能性、リスクなどいろいろ聞いてきた。

「百万のがん細胞が集まって、初めて一ミリのがんができる。たとえ薬でがんの病巣は消えても、周囲にはがん細胞が残っている可能性がある。また与儀さん の場合、石灰化した石があり、この石があると石にまたがん細胞がつきやすい。生きるために手術をしましょう」ということだった。異存はなかった。

乳がんの告知を受けてから、すぐに手術をする場合、また、私のように最初に抗がん剤による化学療法によってがんを小さくしてから手術をする場合がある。 すぐに手術をすれば、とりあえず病巣はなくなるわけだが、私のように術前の抗がん剤投与は、手術までどれだけ抗がん剤が効くのかという精神的なプレッ シャーが、とても大きい。

人の心は一瞬一瞬変わる。絶対にがんに勝つ!と思っていても、具合が悪くなると不安でいっぱいになる。そんなとき、私の人生を考えてみる。乳腺専門の、 信頼できる素晴らしい主治医にめぐり合えたじゃないか。私の打っている抗がん剤は、その主治医が、私に一番いい治療法として選んでくれた薬じゃないか。絶 対に薬は効いている、がん細胞をやっつけている! それが私の人生だ。

手術を終え、主治医から結果の説明があった。私の場合、非常によく抗がん剤が効いていたということだった。

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長




闘病記 「絶対に負けない」と決意 激しい副作用の抗がん剤治療


乳がんの治療はとても進歩が早く、良い薬もどんどん開発され、現在では私たちの時代に体験したような苦しい副作用の伴う治療は、もうしていないらしい。

二〇〇一年十一月二十一日、手術前の抗がん剤による治療が始まった。私の場合、毎週火曜日三週間抗がん剤を投与し一週休む、これで一クール。このパターンを手術前に三回行う。

「人間には約六十兆の細胞があり、常に新しい細胞と入れ替わっている。前向きなことを考えているときは、前向きな細胞が生まれ、後ろ向きな考えでいる と、後ろ向きな細胞と入れ替わってしまう」という話を思い出した。主治医も「非常によく抗がん剤が効いた場合、数パーセントの可能性でがんが消える場合が ある」と言っていた。「よし、数パーセントの中に入ろう」。私は決めた。抗がん剤は、私と一緒に乳がんと闘ってくれる「良き友」だ。抗がん剤の一滴一滴を 「頑張れよ! 頑張れよ!」と闘いに送り出すような思いで打った。

同じように抗がん剤を打つ人たちは、数人が一緒の部屋で投与を受ける。今日で最後という人、二回目という人、さまざまだ。私は今日が初めての治療だと言 うと、先輩たちが「一回目は大丈夫。気分が悪くなるのは二回目か、三回目からだから」と教えてくれて、少し気が楽になった。

当時、主人は仕事で名護に住んでいたので、私は家に帰ると独りだった。私のことを心配してくれていた主人や友人たちに、どうやら今日は何ともなさそうなので、大丈夫だと伝えた。ところが、翌日の午後から激しい吐き気に襲われた。

「ウソ、今回は気分悪くならないんじゃないの?」。副作用は人によって異なるのだ。抗がん剤は回を重ねるごとに体力がなくなり、副作用もきつくなる。抗 がん剤と同じ赤い色のものを見ると、気分が悪くなり、めまいがした。主治医の予告通り三週間目でパラパラと髪の毛が抜け、そのうち眉毛、まつげまでも抜け た。

二クール目に入ると、毎晩同じような夢をよく見るようになった。その夢はまるでサスペンスドラマのような夢で、私は犯人らしき者を、捜しながら追い詰め ていく。また、形勢逆転し、必死に逃げるときもある。とにかく、夢の中でずっと闘い続けているため、眠った気がしないのだ。目覚めたとき、とても疲れてい る。主治医にそのことを話した。

「それで、最後はどうなるの?」

「勝ちます。最後は必ず、私が勝つんです」

「だったらいい。何があっても負けないで、最後に勝っているならいいよ」

何日かすると、副作用のため私は全く寝付けなくなった。コーヒーを飲んでも何をしても、布団に入れば、すぐ"爆睡モード"に入っていた私には、信じられ ないことだった。眠くて眠くて、目も痛いのに、頭がはっきりしていて眠れないのだ、癖になったら嫌だから、とちゅうちょする私に、主治医はいつかやめれば いいのだから、と入眠剤を出してくれた。

「今、私が苦しいのは病気のせいじゃない。抗がん剤の副作用がきついだけ。絶対に負けない!」。一日に、何度も、何度も、何度も自分に言い聞かせた。「絶対にがんに勝つ!」

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長




闘病記 "厳しい告知"に治療決意 目指すゴールは「治す」と自覚


「乳ガンだね。こんなになるまで、ほっておいて。どうしてもっと早く来なかったの」 マンモグラフィー、エコーの検査を終えると、外はもう暗くなっていた。やっと、名前を呼ばれ、診察室の中に入っていくと、私の顔を見て医師は言った。忘れもしない、2001年11月6日。私は、乳がんの告知を受けた。

乳がんといえば「しこり」と思うでしょう。でも、そうとは限らない。奥のほうにあるガンは手に触れない。私たちは患者どおしで、乳がんとわかったとき、 どんな症状だったか、という話しをする。しこりには気付かなかったけれど、とても肩が凝ったとか、腕がつっぱったとかいう人もいた。私の場合は、乳頭から の分泌物。夜、はずした下着に、2ミリほどの汚れがついていたのだ。

「でも先生、良性か悪性かはまだわかりませんよね。」
「良性のガンなんて無いよ。」さらに検査のための細胞を取った後、追い討ちをかけるように 「いいでしょう、あなたがこの細胞が良性か悪性なのかわからないと言うのなら、誰がみても100%悪性である、ということを証明してあげます。」と言い切った。

「先生、私の病状はだいぶ進んでいるのですか?」医師の様子から、かなり悪いことは察しが着いたが、私は助かるのかどうかを知りたかった。

「どんな人も、治すという結論は一緒です。そのために、その人にあった治療をします。与儀さんにも、与儀さんにとって一番いい治療をします。頑張りましょう」と医師は大きな声で言うと、初めてニッコリ笑った。

普通、ガンの告知というのは、患者の心を傷つけないように、やさしく、本人にはあまりはっきり言わないもの・・・と思っていたが、私への乳がんの告知は、かなり厳しく、はっきりしていた。でも、私にとって、これ以上完璧な告知はかった。

実は、私のこの症状は2年ほど前からあった。そのとき最初にかかった病院で、同じようにマンモグラフィー、エコー、そして分泌物が乳がんからくるものかどうかを検査した上で、"乳がんではない"と、診断されていたのだ。

もちろん、告知の方法はケースバイケースであり、必ずしもはっきり言うことが正しいとは限らない。ただ、私の場合、"乳がんではない"という診断をはっき り否定し、戦うべき相手は乳がん、そして、その先は「治す」というゴールを示してもらったことにより、苦しい抗ガン剤の治療を乗り越えられたと思う。

4日後、主人と私は主治医から病状の説明を聞いた。私のガンはV期で9センチに広がっており、状況的にはガン細胞が体中を流れている可能性がある。そこ で治療法としては、まず抗ガン剤を9回投与し、体中に流れているかもしれないガン細胞をたたく、そしてガンを小さくしてから手術をし、その後また9回、抗 ガン剤をうつ。そして非常によく抗ガン剤が効いた場合、数パーセントの可能性でガンが消える場合がある、とのことだった。

「大丈夫!大きな与儀さんが、ちっちゃなガン細胞に負けるわけない!」友人が言った。

そう、私のゴールは「治す!」

与儀淑恵
「乳がん患者の会 ぴんくぱんさぁ」
同会会長

 
 
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